決して権力争いに持ち込まない
・誤りを認める
・謝罪する
・権力争いから降りる
競走や勝ち負けの眼鏡を外すこと
人生は競争ではない
すべての悩みは「人間関係」である
我々に足りないのは「しあわせになる勇気」
人生のタスクから逃げていないか
行動面
自立すること
社会と調和して暮らすこと
心理面
私には能力があるという意識
人々はわたしの仲間であるという意識
この二つを達成することにより、人生のタスクを達成できる
承認欲求は不要
賞罰教育の弊害 → あなたはあなたの人生を生きるべき!
他者の期待を満たさない
自分の欲求のみを生かすこと
他者の承認を求めていると、他者の希望をなぞって生きるようになってしまう
課題の分離
例:こどもが勉強しない
そもそもこれは誰の課題か?
勉強は子供の課題ではないか?
そこに介入するのは、他者の課題に土足でふむこむようなもの
分離して考える
他者(自分の子も他者)の課題には踏み込まない
自分の課題に土足で踏み込まれることに問題があるのでは
こどもに勉強させるのは親の課題ではないのか?
その問題によって最終的に困るのは誰だ??
「こどもだ」と言いながら本当は親の見栄のために言っていないか?
本当に困るのは親ではなくこども本人!!!
ほとんどの親は「自分のために」こどもに勉強させていないか
放任主義を推奨しているわけではない
本人の課題を伝えいつでも援助することを伝える
あくまでも判断はこどもに任せる
同様に
カウンセリングの結果、行動を変えるのは相談者の課題である
馬を水辺に連れて行くことはできるが水を飲ませることはできない
カウンセラーは相談者の人生を変えてあげることはできない
ひきこもりについて
原則として本人が解決すること
窮地に陥ったときに親に相談できるような信頼関係を築いているか
困ったときは「いつでも援助する」ということを伝える
子供こそ我が人生??
こどもは独立した個人
親の思う通りには決して動かない
心配になるが、こどもといえども他人
そんなこどもは、あなたの気概を満たすために生きているわけではない
家族だからこそ課題を分離する必要がある
信じる
これも課題の分離
相手がどう動くかは「相手の問題」
自分の希望通りに動かなかったとしても、変わらない愛の気持ちで接することができるか
他者の課題はとにかく切り捨てる
「本当の自由」とは
欲望や衝動の奴隷ではなく、本能や衝動にあらがうことこそ本当の自由
「対人関係からの自由」を求めている
自由とは「他者から嫌われること」
「嫌われている」とは自由に生きていることの証である
すべての人から嫌われないように生きるということは
不自由極まりない
自由とは組織からの解放ではない
たとえ組織から飛び出したところで承認されないかもしれない
という意識を手放さない限りは自由ではない
当然、悪行を働くということではない
人間とは、自由の重みに耐えられるのか
開き直るのではなく、「課題を分離」する
相手の感情に介入しない
坂道を転がり落ちるのではなくときには登って行くこともある
いまあなたは自由ですか??
嫌われたくない
という気持ちはわかるが
相手が私を嫌うかどうかは相手の課題
「水辺へ連れて行った馬が水を飲むかどうかは私の課題ではない」
親との関係
父親との関係
母親が亡くなり父親との関係がこじれた
父親から殴られた
逃れようと隠れたが引き摺り出された
殴られたから関係が悪くなった → フロイト的原因論的な考え
父との関係をよくしたくないから殴られたことを思い出した → 因果律の逆転
父との関係をよくしたくないから殴られたことを思い出す
手も足も出せない
自分がどう決心するか
対人関係のカードは常に自分が握っている
だから
あの人は、一体私のことをどう思っているんだろう...
と思ってしまう
あの人が私のことをどう思うかは、「あの人」の課題である
他者を操作しようとするのではなく
相手がどう変わろうと自分の課題ではない
そして相手が変わることが目的ではない
他者を操作できないし操作しようとしてもいけない
承認欲求に縛られていると
いつまでも人生の課題は相手にあるとおもってしまう
世界の中心はどこにあるか?
「個人」は分離できない最小単位
例:感情的に怒鳴ってしまった
わたしという「個人」がどなった
感情と個人は別ではなく、一緒に考えないといけない
人間は分離できない
わたしはわたし
あなたはあなた
お互い勝手に生きようとなってしまうのでは?
良好な対人関係にはある程度の距離が必要
課題の分離
対人関係のゴールは共同体感覚
他者は敵か味方か?
他者を仲間としてそこに自分の居場所があると思うこと
共同体とは
家庭や学校、職場や地域社会だけでなく、国家や人類など
さらに動植物から宇宙まですべて!!!
ここは、アドラー本人も到達できない理想である
すべての悩みは対人関係
つまり、幸福の源泉も対人関係
共同体感覚
それは社会への関心
社会の最小単位は「わたしとあなた」つまり、二人いればすでに社会!!
自己への執着
これを他者への関心に切り替えてみる
ここではあえて自己への執着を「自己中心的」と言い換える
暴君タイプ
集団の輪を乱す
単独行動を好む
自分勝手
一般的にはこういうタイプのことをいう
さらに
「課題の分離ができておらず承認欲求に囚われているひと」
も自己中心的という
相手にどれだけ自分の欲求を満たしてくれるか、
しか考えていないのは自己中心的である
つまり「わたしにしか関心がない」から
他者からどうみられているかを考えているのは
他者への関心に見せかけて、自分のことしか考えていないから!!!
自分がどうみられているか気にしている人は自己中心的なのである!!!
あなたは世界の中心ではない
あなたはここにいても良い
自分の人生の主人公はわたし自身
しかし人生の中心であり、共同体の一部で
全体の一部でしかない
よくある間違いは
この人はわたしに何を与えてくれるか
わたしのために周りが動くべき
と考えることはないか
期待が満たされないときに憤慨するなど
あのひとは何もしてくれない
あの人はもう敵だ!
となってしまうことはないか
「世界の中心」とは
平面の世界地図ではなく、地球儀のような球体
われわれはみな「所属感」をもとめている
それを達成させるのは、「積極的にコミットする」こと
自らの人生のタスクに立ち向かうこと
自分の足で立ち
自分の人生のタスクに立ち向かわなくてはいけない
誰かからなにかをもらうこと
ではなく、まわりに何を与えられるか
自分の足でたち、自分の人生のタスクに立ち向かっているか?
宇宙や無生物と考えると難しいが
共同体の範囲は「無限大」
例:定年退職した人
「会社」という組織を離れただけで、目の前の共同体に所属している
という気づきが必要
人は必ず何かの共同体に属している
孤立はできない
目に見える存在だけではなくわれわれはみな
複数の共同体に所属している
どこの共同体が「すべて」としているか
そこで何らかのトラブルがあったとき
・いじめ
・授業についていけない
など
ここにいてもいいとおもえない
学校こそがすべてだよね、、、
と思ってしまっていると
より小さな共同体「家庭」などに逃げて
引きこもりや家庭内暴力などににげることがある
学校に居場所がないのなら
退学して他の場所で共同体をみつければよい
たとえ引きこもったところで小さなコップの中の話だけ
外に思い切って飛び出してみよう!!
対人関係の困難にぶつかったとき
その時は、「より大きな共同体の声をきく」こと
例:はたして教師は絶対的な権限なのだろうか?
それは「学校」という極めて小さな共同体の中だけでのはなし
それよりももっと大きな共同体をイメージできていれば
合わなければべつにやめてしまっても構わないし
異を唱えても良い
自分の意思で自由を選ぶべきである!
叱ってはいけないし、褒めてもいけない
アドラー心理学では子育てをはじめ
ほめる、しかるは反対という考え方を持っている!!
褒める言葉には「上から目線」の意識が入っている
能力のある人がない人に下す
お手伝いえらいわね
褒める母親はこどもを上下関係にみている
自分より能力の劣るものを操作するのが「ほめる」こと
アドラー心理学では賞罰教育を否定している
「誰かに褒められたい」とは
対人関係を縦に捉えているから
人間関係は「横の関係」である
「同じ」でもなくあくまでも「対等」である
会社員と専業主婦は、同じではなく上下でもなく「対等」である
その背景には「強烈な劣等感」があるのでは?
劣等感とは、縦の関係を恐れるときにでてくるもの
他人を褒めるときに
(無意識に)相手を操作しようと思っていないか
そんなときに、縦の関係から抜け出せているか
「勇気付け」というアプローチ
なぜひとは他人に介入してしまうのか?
それは「操作」
つまり
自分は正しく相手が間違っている
と思っているから
本人は善意と思っていても、それは他人の領域に土足で入り込むこと
困っている人に、手を差し伸べることは「介入」
勉強しないこどもに、勉強しなさいと指示することも介入
勉強するかしないかはこどもの課題
本人に「自分は勉強ができる」と思わせる
自力での解決を援助すること
課題に立ち向かうのは「あくまでも本人」
横の関係による援助を「勇気づけ」という
勇気づけとはほめるの違いは?
ひとは「ほめられる」と
自分には能力がないという信念を形成してしまう
縦の関係に従属してしまうようになる
褒めてもらうことが目的になると
他社の価値観に依存してしまう生き方になってしまう
お互いは違う。大事なのは縦ではなく「横の関係」である
ではどうすれば?
ありがとう!
うれしい
助かったよ!
「横のつながり」のことばを伝えること
決して「縦の評価」をしない
横のつながりを意識すれば、自然と
感謝
尊敬
喜びの言葉
が出てくるはず
ほめられるとは
他者から評価を受けている
つまり
他社の物差しで見られている
ということでありそれを「貢献」とは感じない
ありがとう
純粋な感謝のことば
貢献できたと感じることができる
「自分には価値がある」と思えるかどうか
ありのままの自分を受け入れ
自分の人生のタスクに立ち向かえる
ひとは、
わたしは、この共同体にとって有益な存在なんだ!
とおもえた瞬間、つまり他者からの良い評価ではなく、
みずから「貢献できている」
と自分で判断できたときに、能力を発揮できる
わたしは誰かの役に立っている
と思えたときに「生きる勇気」につながる
他者を評価する言葉は、上下の関係である
他者に役立てない人間には価値がない??
例:認知症の親は生きる価値がない?
こどもや親に対して
他者のことを「行為」レベルだけで見ていないか?
行為ではなく「存在」レベルでみること
ひとは「存在しているだけ」でだれかの役に立っているし価値がある
例:母親が交通事故にあってしまった
そんな母を見たら、「生きているだけで嬉しい」と感じるはず
もし危篤状態であれば、なおさら生きているだけでよい
と思えるのではないか
もし同じく自分がその状態なら
周りの人も「存在だけでありがとう」と思われるはず
人間の「行為」ではなく「存在」の次元で感謝ができているか?
引き算で考えるのをやめる
われわれ人間は、自分にとっての理想像を勝手に作り
そこから引き算でかんがえてしまっていないか
これこそが「評価の発想」
引き算ではなくゼロの地点からの考え
引きこもりのこどもであっても
洗い物を手伝ってくれたら「ありがとう」と声をかけるべき
共同体感覚
誰かが始めなければならない
他の人が協力的かどうかは問題ではない!!
もし「自分なんて価値がない」
と自分を評価するなら
なぜそう思うか説明できるでしょうか?
たとえば、雑務の仕事をやっている自分
単純な労働力、機械でもできる仕事をしている自分
まず「横の繋がり」をもとめること
どこかで無意識に、「縦の繋がり」を自ら築いていないか?
自らのライフスタイルは、そう簡単に変えられない
じつは、縦の繋がり、横の繋がりはどちらかでしか繋がれない
無意識に友人も上下関係でつながっていないか
こう言うと
会社内で、社長と新入社員が横の繋がりなんて無理では?
という質問を受けるが
職責はあるが「意識」でつながることはできるはず
そもそも「目上」とは?「立場を考える」とは??
上司の指示に従った結果
仮に失敗した際に、
責任は、断る余地があったが「断る余地がない」と勝手に逃げていた自分の責任では?
それははたして本当に無理なことなのだろうか?
「いまここ」を真剣に生きる
共同体感覚
アドラー心理学の最終形態はその状態
人生の意味は何か?
どこへ向かおうとしているのか?
過剰な自意識が自分にブレーキをかけてしまう
ここにいても良い
という「所属感」
「わたし」への執着をやめて
「他者への関心」をもっとするべき
会議で手を上げられない
的外れな質問で笑われるのでは?
無邪気に振る舞うことを自分が許さない
その自意識過剰は「自分勝手」だと気付くこと
そもそも「幸福」とは何か?
自己肯定のまえに必要な「自己受容」
自意識過剰という人は、まず目的を考える
笑われたくない
馬鹿な奴だと思われたくない
自身がない
それは、ありのままの自分を回避しようとしているのでは?
自分一人であれば部屋で歌ったり好きなことをできるのでは?
無邪気な自分ができないのではく、人前でできないだけ
共同体感覚、自己への執着を他者への関心
1、自己受容
自分をうけいれる
何が与えられたかではなく、与えられたものをどう使うのか、が大事
使い方をかえる
何でも前向きに、自己肯定ではなく自己需要
自己肯定:自らに嘘をつく、60点の自分に「本当は100点だ」と思う
自己受容:できなくてもできるように前にすすむこと、60点の自分に「60点でOK」と思う
100点満点の人間など一人もいない
「肯定的なあきらめ」
かえられるもの
かえられないもの
をきちんと分けて考えること
あたえられたもの、変えられるものに注目する
交換不要なものを受け入れ
変えられるものをかえていく勇気
我々に足りないのは能力ではなく「勇気」
2、他者信頼
信用:条件付き、クレジット(銀行の貸し出しなど、信頼ではなく信用)
信頼:他者を信用するにあたってなにも条件をあたえない、無条件に信じること、信じ続ける態度のこと
騙されて利用されることもあるが
それでも無条件に信頼してくれる人がいると思ったら
信頼の反対は「懐疑」
対人関係の前提で懐疑的であれば、どんな関係がうまれるか
信用していないと無意識に相手に思われ、その後どうなってしまうかは簡単
相手を無条件に信頼したら裏切られるかも
と思うのは相手のことを勝手に決めつけていないか?
課題の分離の原理原則
道徳的価値観
他者を無条件で信頼せよとは言ってない
もちろん断ち切ることもOK
裏切られることもあるかも
そもそも「他者って敵ではないのか?」
信頼の目的とはどこにある?
彼女が浮気しているかも?→その結果、山のような浮気の証拠がみつかる
疑いの目を持っていれば浮気の証拠になる
いま、裏切られたこと、自分の傷のことしか意識がないのでは?
そもそも裏切られるのが怖いのでは?
裏切られることの恐怖を乗り越えるのは「自己受容」
もし裏切られ悲しいときには思い切り悲しめば良い
我々には裏切ることも疑うこともできるし、信頼することもできる、どちらを選ぶか?
「ここにいてもいいんだ」と思うには他者を信頼すること
他者を信頼することは他者を仲間に思う
自分の属する共同体に居場所を感じる
3、他者貢献
他者にたいして貢献しようとすること
決して自己犠牲ではない
自分の行動が共同体にとって有益と思えたとき
貢献したと思える
最もわかりやすい他者貢献とは労働
自らの存在価値を受け入れている
仕事はお金を稼ぐことだけではない
巨万の富を得た人がなお働くのは
他者貢献のためであり
ここにいても良いんだと確認するために活動している
例:食事後に食器を片付けてくれない家族
こんな場面でも
「何で手伝ってくれないの」と
他者が私に何をしてくれるか
ではなく
「鼻歌でも歌いながら楽しく家事をする」など
わたしが他者に何ができるか、貢献感をもてるかどうか
他者を敵と見るか仲間とみるか
人生の目標は「共同体感覚」である
理論は納得できても行動には時間がかかるかもしれない
ワーカホリックのウソ
世の中は善人ばかりではない
攻撃してくる人だけ問題があり、人類すべてが問題ではない
「みんな間違っている」
「すべてがおかしい」
などと全体を判断する発言をしていないか
全体を10としたときに
1:何をしても嫌う人
2:何をしても好きになる人
7:どちらでもない人
1を注目しすぎて「全体」としてみてはいないか?
たとえば吃音症のかたは
「自分の話し方にだけ」意識を向けすぎていないか
そんなひとは実際に1くらいしかいない
しかし「みんなが自分を笑っている」
と思ってしまうことがあるが、そんな時はどこに注目しているのか
本当は
自己受容
他者信頼
他者貢献
ができていないことが本質の問題のはず
ワーカホリック
人生の特定の側面だけに注目している
仕事が忙しいから家庭を顧みない?
趣味や交友にも注目すべきなのに、、、
ただ仕事を忙しくすることで、本質から目を背けていないか
ワーカホリックは、「人生の調和を欠いた生き方」
家族は誰も反論できない
そのひとは「行為」でしか価値を判断していない
将来定年や怪我をしたときには
深刻なダメージをうけることになるだろう、、、
ひとは行為のレベルで、いつかは何もできなくなる
そのときに自分を存在のレベルで
受け入れることができるかどうか
きちんと今のうちに考えておきたい
勇気のありかた
全ての悩みは対人関係の悩みである
しあわせも対人関係にある
今日の話を聞いた人は
今この瞬間から幸せになれる
人間にとっての幸福とは何か?
人間にとって最大の不幸とは
「自分を好きになれないこと」
すなわち
「自分は誰かの役に立っている」
ことこそ最大の幸福
あなたの幸福が役に立っているか本当に貢献しているかどうかは
自分の決めることではない
他人が決めることである
幸福とは「貢献感」
全ての人間が幸福である
ことと
全ての人間が幸福を感じているか
は同意ではない
どうすれば貢献感を感じられるか
他者からの承認を得る??
そんなことを気にしていたら
他人の望み通りの人生を生きることになる
そこに自由は絶対にない!
対人関係の自由は普遍的である
私は誰かの役に立っている♪
と思える人は
だれかの承認を必要としないし、他者からの承認はいらない
自分が周りに対して貢献感があればそれだけでよいのである!
特別な存在
自分には価値がある
無価値な存在ではない
はたして、そう思うだけで本当に幸せなのか?
自己実現的な幸福とは?
社会的な幸福
芸術家?難病を治す医師?
人間誰でも
向上したいと思うこと
理想の状態を追求したい
勉強やスポーツ、習い事をすること
しかし、うまくいかなかったとき
こんどは逆に悪くなろうとする
他者の注目を集めたい
勉強やスポーツで努力を回避して注目を集めたい
学校にバイクで乗り入れて授業を妨害?
友達には安直な優越性の追求から一時的には注目を集めるが
悪いことをやって叱られることで
こどもは注目をあつめ
問題行動をやめない人間になってしまう
普通であることの勇気
誰一人として悪を欲する人はいない
ソクラテス
普通であることの勇気
なぜ特別である必要があるのか
普通である自分を受け入れられないので悪いことをしてしまう
自己受容は「普通であることの勇気」への第一歩
普通→無能
ではない!!!
自らの優位性を目指す必要もない!!
特別でありたい?怠惰な自分を肯定する?所詮自分はここまでで良い?
過去の偉人は普通を受け入れたか
人生には高い目標が必要か?
人生とは連続する刹那
人生は登山のようなもの?
そうしたら人生のほとんどが途上になるのでは?
もし病気や天候不良で山頂にたどり着けないとしたら?
自業自得?体力がなかった?運がなかった?実力がなかった?
そうではない
人生を線で描いていないか?
フロイト原因論
人生は線ではなく小さな点の連続である
人生は連続する刹那
いまここ
の積み重なりである
それをしらないと
いい大人が若い人たちに人生に線を求める
人生が線なら人生設計は必要かも
しかし
人生は点の連続である
ダンスするように生きる
途上としての人生ではなく
いまここ
いまこの一小節
いまこの瞬間
をダンスするように生きる
いずれも途上で終わっているわけではない
いま踊っていればそれでよい
ダンスによってその先にどこかに到達するとは思っていない
目的地に到達するだけの人生
ダンス→現実活動的な人生
キーネーシス的
視点と終点がある
効率的かつすみやかに早く効率的にやる
目的地にたどり着いていないのは
エネルゲイヤ的
なしつつあることが、なしてしまった過程そのもの
旅の目的はそもそも「最短距離で帰ってこよう」などとは思わないのでは?
家を出た瞬間から目的地までもふくめ全部旅なのでは
・登頂なのか登山なのか
あなたの登山の目的は何?
「いまここ」に強烈なスポットライトを
後ろも前も見えない?
それのどこが問題??
ステージでスポットライトをあびていたら
なにもみえないのでは?
過去も未来も見えないのは当然
過去も未来も見えてしまうのは「いまここ」を生きていない証拠なのでは?
過去に何があったか
未来がどうなりそうか
などは、いまをいきていれば何も問題はない!!
人生を物語に見立てる
それも面白いが、その物語に沿って生きようとしていないか??
人生は天の連続であり連続する刹那である
未来に物語はみえない
いまできることを真剣かつ丁寧に生きることだけ
人生最大のウソ
大学に行きたい
と言いながら勉強しないのは
いまここを真剣に生きていない
毎日すこしづつでも何かやるはず
ダンスを踊ること
遠い将来の受験ではなく
いまここをどう真剣に生きるか
ワーカホリックの父親を認められないとき
どこに到達したのか
ではなく
どう生きたのか
人生を先延ばしにしていないか
いまは我慢の時期?として自分を慰めていないか
夢や目標もない?
踊るダンスもない?
深刻になってはいけない、人生はいつもシンプル
真剣になるのは良いが深刻である必要はない
もしいま人生を終えたとしてもすべて完結した生である
人生最大のウソ
それは「いまこの瞬間を生きないこと」
過去と未来に光をあてて
ぼんやりと見えたつもりになっていること
いまここに強烈なスポットライトを当てること!
自分の人生を真剣に生き切ること!!
無意味な人生に意味をあたえる
いまここをいきる
とは
新しいライフスタイル
となると
人生の意味とは?人は何のために生きるのか?
一般的な人生の意味などない!!
戦時中など、理不尽な出来事が隣り合わせ
一般論として語れる意味などない
しかし、何も行動しないのは無意味を肯定すること
だから行動すること!!過去は振り返らないこと!!
これから何ができるのか、いま真剣に考えること
人生の意味とは、あなたが自分自身に与えるもの
人々は仲間であり
人生は素晴らしい
と本気で思えるか?
人生に意味はないが、意味を与えることができるのは自分!!
他者の人生を生きようとしない
自由を選ぶこと
そして巨大な理想
それは「他者貢献」にある!
他者に貢献するのだ
嫌われる人にjは嫌われて構わない
刹那としていまここを真剣にダンスするように生きる
踊っていけばどこかにたどり着くだろう
この人生を、毎日の刹那を、踊り続けること!踊り切ること!!
おわりに
自分一人の力ははかりしれないほど大きい
わたしが変われば世界が変わる
わたし以外の誰も世界を変えられない!!
他の人が協力的であるかどうかは問題ではない!!
大事なことは「いまここ」が強烈に輝いているかどうかだ!!
世界はシンプルである
人生もまた同じである